「いずれ限界が来る」発言についての私の着地点

(昨日の私の日記『やっぱり萌えてるのかなと思わされてきた』(id:okgwa:20040122#p3) の続きです)

萌えについてとかいろいろ komiya 氏(id:mkomiya)に(難解でしたが)すごく丁寧に解説して頂いたので、米沢氏や komiya 氏の立場が分かったような気がしてきました。

以下、この話題についての自分なりの着地点を書きます。

米沢氏の「いずれ限界が来る」発言については、

マリみてに萌えきれない人の嫉妬だと思います(思ってみました)

──というのがほんとのところではないのでしょうか(嫉妬とまでは言いませんが)。

多分、米沢氏や komiya 氏は、マリみてのどこがいいのか全く分からないのでしょう。で、並の人だったら「俺にはわかんねーや」で済ませるところを、「分からないけど流行っている。何か理由があるに違いない」と、分析を始めた──あるいは逆で、分析のために敢えて自分の身をそういう立場においたのではないかと思います。

そうすると、例えば、マリみてブームが無理やり萌えさせられるのを拒否して、あざとくないものを探して萌えたという構図に見えたりする。

そういう立場からの無理やり発見してきたという意見は、「マリみてのどこがいいのか分からない」という人たちを、「ははあ、なんで流行ってるのか分からなかったけど、そういうことだったか」と、納得させることができます。でもその分析では「分かる人たち」は納得させられません。

ですから、そういう話の流れの中でのいずれ限界が来るという意見は、当然「分からない人たち」でないと納得できません。

萌えが云々というのは基本的に男性中心の話ですから、萌えの対象には当然のようにエロパロディが創作されます。そしてほとんどの場合、「消費者」はそれを諸手を挙げて受け入れてきました。私は同人誌について全く詳しくないのですが、少なくとも同人の活性化にエロパロディが一役買ってるはずだと思っています。

でも、マリみてについてだけはどういうわけか「エロパロディはちょっと違うよね」という雰囲気が自然に生まれてきて、やおい大好きお姉さまから エロゲー大好きお兄ちゃんさんまで、 マリみてだけは健全で頑張りたいという趣旨の同盟ができたりしています。

場外からはそんな様子が「萌え萌え言ってるけど結局マリみてを消費しきっていないじゃないの」という風に見えるでしょう。

「分かる人たち」は、エロパロディが作りにくいという感覚は分かるのですが、理由を説明できません(ちなみに「神聖化」では説明できません)。

「分からない人たち」は、当然その感覚は分かりませんが、理由ははっきりと説明できます。マリみて萌えは無理やりなので無理があるものだからです。だから限界が来る

──同人誌≒エロパロディみたいな主張になってしまいまして恐縮です。でも米沢氏の認識はこっちに近いんじゃないかなーと。でも何か誤認があればつっこんでください(多分反論できません)。

ちなみにエロパロディとか関係なしの二次創作の話については、improvise の takahashi 氏のコメントがちょっと納得しました。もっとも、つまり使いまわしやすく、持続しやすいってことだけど。「モー娘。」みたいなんだよね、なんか。そういう意味で言うと先代の薔薇様達が卒業しちゃったのは勿体無い。設定上仕方ないけどという具合に冷静に分析されるとちょっと寂しい気もするのですが。二次創作って、マリア様がみてる』の“萌え”を見事に具現化するものじゃないのかなーと。

というわけで、今日のまとめ。

  • 「無理やりなので無理がある」というのは結局マリみてのどこがいいのか分からない人の主張! 「マリみて現象」を分析しきれてない!
  • 従って、以前(id:okgwa:20040118#p3)私が書いた二次創作によって「萌え」を再生産しようとしてる人の多く無理があるのに無理やり萌えてる人たちなのかも知れない、ということについては「そうではない」と見なすのが妥当!
  • 二次創作はマリみてへの愛(萌え)があればまだまだ行ける!

──といったところで。

なお、「マリみてが分かる=萌えるなのか」とか、「エロパロディは違うと思ってしまうのは何故か」とかについて書き足りないのですが、論点がぼけるし、既にどこかで結論が出ているかも知れないので今日はやめておきます。

(この話題の続き→id:okgwa:20040125#p1)