政治的フラッシュも飽くまでエンタメであるという見方

人権擁護法案に反対する政治的フラッシュについて、これまでに私は「政治的フラッシュをエンタメとして観る」でエンタメとしてのあり方について、「人権擁護法案反対フラッシュの功罪」ではその主張の是非について書いてきました。

特に人権擁護法案について(デスノート風)FLASH版は、はてなダイアリーの中だけでも述べ350以上の日記で言及されており、多方面に大きな影響を及ぼしているようです。

そんな中、こんな記事を読みました。

この記事を書いたid:uboshiさんは、若隠居の徒然日記:人権擁護法案について デスノート風フラッシュ版のコメント欄で、作者さんが昔からFlashアニメ界隈では有名な方だったのでショックを受けて、あえて擁護するエントリーを書いてみましたと述べていますので、そのつもりで読む必要があるわけですが、要するに「フラッシュ作品として観るならフィクションとみなさければいけないんじゃないのか」ということなんですね。

ドキュメンタリーだのノンフィクションだのと「真実に近い」とされる形態を採っていても、作者の手を経た創作表現は、その時点で絶対に虚構性から逃れられないのである。これを無視することは即ち「現実と虚構を混同する」事であり、フィクションに対しての一番危険な向きあい方だと思う。

これは確かにその通りと思います。

私もそのへんの判断くらいは出来るつもりでいたのですが、それでもやはりこのフラッシュを含む一連の反対フラッシュについては本気で向き合ってしまいました(「エンタメとして観る」なんて自分で言っておきながら実践できなかったという……)。

ここでid:uboshiさんはひょっとしてFlashアニメって世間では創作表現として認められていないのか?という考えに至るわけですが、私はそれよりむしろFlashが伝達メディアとして「無色」であるということなんじゃないかと思います。

「無色」なメディアは、芸術表現も出来れば言論も可能であるという万能性を持ちますから、それがどう見なされるかはやっぱり内容に依るんですよね。

ただ、フラッシュ作者の立場からすると、作品がフィクションであると見なされることはちょっと不本意なんじゃないかなとも思います。

政治的フラッシュをエンタメとして観るで頂いたコメントが、それを端的に表していると感じました。

なんで有名職人さんたちが、危険を承知で名前を出して作品を
出してきたのか少し考えて欲しいと思いました。
きっと自分達の知名度を生かして、少しでもこの法案を多くの人たちに
知ってもらいたかったからであって、決して今まで作ってきた過去作品と
比較して、したり顔でどうこう言われるためじゃないと思います。

これは作者本人によるものではありませんが、実は私、心情的にはこのコメントが非常に良く理解できるんですね。フィクションとして作られたものでなければ、こう思うのは至極当然です。

やはりこの記事に頂いたトラックバックにこんな記述がありました。

つまり,今回の問題に関しては中立,公正を重んじ, 事実を的確に伝える「報道」であるべきだと思うのです. しかし,これは相手の感情を自分が意図したように動かそうとする 「エンターテインメント」」です.

果たして政治的フラッシュは「エンタメ」であるべきなのか、「報道」であるべきなのか。

前述の通り、Flashというツールは「無色」なメディアですから、そのどちらを作ることも可能です。つまり、フラッシュだからどうだ、という議論はあまり意味がありません。

要は作り手の「意志」なわけです。人権擁護法案フラッシュを作った皆さんは、一体どちらのつもりでいたのでしょうか?

作者がどちらのつもりで作ったとしても、閲覧者がどう受け取るかについて作者が口出しすることは出来ません。

もちろん、普段はそういうことを意識しなくても問題ありませんが、こと政治的フラッシュにおいてはそれが大きな問題となるわけです。