私にとってはツールも含めてフラッシュだった
昨日の日記でFlashが伝達メディアとして「無色」であるということなんじゃないかと思います
「無色」なメディアは、芸術表現も出来れば言論も可能であるという万能性を持ちます
と書いたところ、トラックバック先のうぼしさんからこんなコメントを頂きました。
正直な所Flashが既存の表現と一線を画して「芸術表現も出来れば言論も可能であるという万能性を持」っている事の根拠がよく分からないのですが。よろしければその辺のご説明を頂ければ・・・と思います。
いま考えると「無色」なメディアという表現は多少大げさで、実はそんなにたいした話ではなかったりします。
指摘を受けて自己分析して、私はフラッシュというものをツールを含めて認識しているということに気づきました。
純粋な閲覧者にとってはフラッシュというと「作品そのもの」を指すと思いますが、作成ツールに直接触れていると、そのツールも含めて「フラッシュ」だという認識になってきます。
これは他のメディアでも同じだと思います。私にとって「映画」はスクリーンに映っているもの(あるいは日曜洋画劇場とかでテレビに映っているもの)を指しますが、映画作成に携わる人はカメラやフィルムや役者やスタッフetc...も含めて「映画」だと認識しているんじゃないか、と。
メディアの中にツールという認識が入ってくると、それは例えば「紙」とか「ペン」とか「インク」とかと同じような感覚になってくるんですね。「これさえあれば何でも表現できるぞ」……という。
だから私はフラッシュは(自分の腕さえ伴えば)芸術表現だろうが言論だろうが、何でも作れる万能ツールだと認識しています。
同じように、映画を作る人のなかには「映画というメディアで芸術表現も言論も可能だ」という主張を持つ人がいてもおかしくないでしょう(ちなみに「演劇」で同じようなことを主張している人は私の周りにいます)。
……といったような理由から出てきたのが『「無色」なメディア』という表現なので、根拠がよく分からないのですが
というご質問には「私の思い入れであって、特に根拠はないです」というお答えになってしまいます(その思い入れについて語りだすとえらく長くなります)。どうもすみません。