2005-01-11 のトピックス
リンクとはいったい何かという話になりそうですが
- 下記項目に関連して、やはりもなみさんによる記事のリンクが普及したワケについて。もなみさんが本当に言いたいのはリンクという仕組みが重要なのではなくて、Tim Berners-Lee氏が言うところのURI(≠URL)という概念が重要だということではないかと思います。
- Tim Berners-Lee 著の『Webの創成』に依ると、特にTim氏がURIという用語を使うときは
普遍性の重要さと情報の永続性を強調する
という意味を込めているようです。
ソーシャルネットワークはWWWの破綻を招くのか
もなQぽぉたるのもなみさんによる無断リンクの権利と義務という記事を読みました。
無断リンクについての私の立場はかつて無断リンク論で書いたとおりなのですが、結局は以下の3点に集約されます。
- 法的には無断リンクは全く問題がない
- 技術的な解決策以外に無断リンクを防ぐ方法はない
- 仮にそれを補うための約束事を取り決めたとしても基本的にはあるコミュニティのローカルルールにしかならずコミュニティの外の人との衝突を産むだけであろう
以上のことから、私は有効な解決策を提示することが出来ませんでした。
その点、今回の記事で提示されているもなみさんの無断リンクされない権利
を無断リンクする権利を放棄する
限り認める、というアイディアは「されない権利」と「する権利」の衝突をうまく解決する方法として妙案です。
仮にこのアイディアが完全に実現された場合、WWWにソーシャルネットワークは存在しないに等しくなります。すなわち、もなみさんの主張はソーシャルネットワークの存在自体の否定といって構わないかと思います。
こういう主張は一見過激に見えます。果たして、WWWにおけるソーシャルネットワークの存在を否定して構わないのでしょうか。
なお、私が考えるソーシャルネットワークの意義は以下の3点です。
一つめは「中の人」にとっての利便性です。HTTPという便利な仕組みを使って「見せたい人だけに情報を公開できる」ことは重要です。また、無断リンクされたくない人にとって、これを技術的に解決する方法として現時点で考え得る限りベストの方法と言えます。
二つめは「中の人」と「外の人」の両方にとって意義があります。「ブログとか試してみたいけど、いきなり全世界に情報発信するほどの度胸はないし、いわゆる『作法』も分からない」という人にとっては、ちょっと試してみる場としてソーシャルネットワークはうってつけです。また、「外の人」にとっても、いきなり初心者に迷惑かけられる危険が減ります(まあ、サンドボックスとしてのソーシャルネットワークは、いわゆる「ぱど厨」の問題とかの新たな問題を生むこともあるんですけど)。
三つ目は「外の人」にとっての意義です。http://www.multithread.jp/blogless/なんてものが存在することからも分かるように、ほとんどの人にとってブログはノイズにしかならないことが多いようです(GoogleのPageRankの仕組みの問題でもありますが)。どうせ内輪の話しか書いてないようなコンテンツにはアクセス不可能になってるほうがすっきりします。
これらはいずれも、ソーシャルネットワークをWWWから見えなくすることによって生まれる意義です。したがって、WWWにおけるソーシャルネットワークの存在を否定しても、ソーシャルネットワークの意義は特に損なわれないということになりそうです。
しかしながら、WWWにおけるコンテンツはすべてURLで示されることを考えると、ソーシャルネットワークとWWWを完全に切り離すことは不可能です。リンクにするか否かに関わらず、URLが記述されればその時点でWWWにおけるコンテンツへのアクセス手段が示されるのですから。
これはソーシャルネットワークに関わらずどんな媒体でも同じことです。
こう考えると、もなみさんが理想とする真に対等なコミュニケーションツール
としてのWWWなんてのは実はまやかしなのではないか、という気がしてきます。
WWWなんてのは実は一方的に情報を搾取されるだけの仕組みでしかないのでは……?
もちろん、もなみさんは「そうなってはいけない」ということを終始主張なさっているわけで、それが故の(少々挑発的な)ソーシャルネットワークの否定なのでしょう。
ただ、私はソーシャルネットワークについては割と楽観的です。
上記の、私が考えるところのソーシャルネットワークの意義は、別に「中」から「外」へのリンクが存在したところで損なわれません。少々うっとおしいというだけのことです。それよりも、内輪でしか通じないような(私にとっては意味のない)コンテンツがWWWから減る利点のほうが断然大きいです。
また、仮に本当に意味のあるようなコンテンツがソーシャルネットワークで公開されていたとしても、その作者は竹熊健太郎氏のように周囲だけに読ませるのがもったいない
という気分になるのが普通でしょう。逆に、書いてる人がそう思わないようなコンテンツは読めるようになっててもしょうがない気がします。
そんなわけでmixiを代表とするソーシャルネットワークの台頭はむしろ歓迎すべき事態であると思います。
まー、どっちにしてもmixiなんてどうせネズミ講ですからいずれ破綻しますしねー。
──と、これはmixiに入れない人間のひがみですが(なお、mixiが破綻したら後継としてniyiというネーミングを提案します。mxの次はnyで決まりでしょう)。