やっぱり萌えてるのかなと思わされてきた

(先日の私の日記『私の過剰反応にさらに反応が』(id:okgwa:20040119#p2)の続きです)

私が komiya 氏の『萌えについて』という文章(id:mkomiya:20040119#p3)を読んで、私は、というと、マリみてに萌えているのではなくて「共感」しています。と書いたら、komiya 氏から萌えについての再論がありました。これは私にとっては結構難解でした。岸田秀という心理学者が書いたという「小物語の時代」というエッセーについて触れられてたんですが……。

昭和58年の数ページの文章ですが、物語消費論や動物化するポストモダンの意味する内容は既にすべて出ていると私は思いました。

うーん。そんなんが出てきちゃうのかー。「萌え」って難しいですねぇ。でも私が思うに、難しくなっちゃうその理由のほうは単純で、ずばり「萌えの定義が人によってそれぞれ違うから」ではないかと思います。

で、定義が違ってしまう理由を俯瞰的に見て説明しようとするのが「動物化するポストモダン」なのかなー、なんてことを思いました。

そうすると、私の理解では komiya 氏の主張は「『共感する』ってことは結局は『動物化するポストモダン』が意味するところの『萌え』なんですよ」ということになるわけでして。

あー、そうなのかなー。やっぱり自分はマリみてに萌えてるのかなー。

そう考えている中とどめになったのが、 Angel Heart Club(http://medetai.kakiko.com/applepop/) のよしりん氏のコメント。“萌え”はキャラクターに対してするもので作品そのものするものではないとした上で次のようにおっしゃってます。

文章の中から滲み出てくる“萌え”というのが必ずある……はず。可南子ちゃんの「ツーショット写真が欲しかったんです。……祐巳さまと私の」という台詞みたいな。

なるほど! そういう意味なら私はまさしく「萌えています」! そうか! やっぱり萌えてるんだ! なんかすっきりしたぞー!

とはいえ、komiya 氏の主張に完全に納得したわけでもありません。確かに「動物化」という概念は「萌え」の多様性を説明できるかも知れませんが、それをすなわち「萌え」とすることはできないと思います。そこまで「萌え」は包括的な概念ではないのではないでしょうか。

などといろいろとわき上がるものはあるのですが、とりあえず今日のところは「すみません、やっぱり私もマリみてに萌えてるところもありました」という結論ということで。

(この話題の続き→id:okgwa:20040123#p2)