論理的思考と中二病
ここ最近考えていたことにようやく整理がついたので書いておきます。
きっかけは例の法案
以前、人権擁護法案について反対フラッシュ関連でいくつかの記事を書きました。その関係でこの法案関連の記事をチェックしていたところ、各政治団体やネットでの言説などの立場を分類している記事がありました。
非常にわかりやすい分類なのですが、感情的「拒絶」派
というネーミングやその解説が、積極的に反対運動を推し進めている人達に対してずいぶん挑発的になってるなあと思っていました。
そしたら、案の定当事者から反発があったようで。
特に名指しを受けた「てんこもり野郎」氏は貴方も人権擁護法案と憲法21条改悪感情的拒絶派になりませんか?という記事で廃案以外受け入れる気はまったくなく、つまらない法律の議論なんて興味ありません
と開き直ったかのようなことを書いて「論理的反対派」や「客観的分析派」を挑発していました。
ここに垣間見えるのは「論理」と「感情」の対立です。
論理と感情は両立します──ほんとに?
「論理」と「感情」はどうしても相反するものなのかなあ、なんてことを考えていたら、かーずさんとこの4/14の記事で論理と感情は両立しますという記事が紹介されていました。
この記事自体は人権擁護法案には全く関係ないのですが、ちょうど私が考えていたことにマッチしていたので面白く読みました。──面白く読んだんです、が。
同時に「これでどれだけの人が納得したんだろう」と思ってしまいました。
この記事で取り上げられている大手小町のトピックのトピ主さんは悩みを相談した所<中略>もっともな答えで一喝されてしまいました
と書いていますが、この文からは「そりゃ論理的にはそうだしもっともだと思うけど、なんかそういうことじゃないんだよな……うまく言えないけど」という煩悶がにじみ出ています。
トピ主さんの立場になってみると、案外そういう気持ちになる人が多いんではないかと思うんですが、どうでしょうか。
ここで交流分析について
実は、このもやもや感を説明してくれる理屈があります。交流分析です。
交流分析とは、おおざっぱに言ってしまうと人の心を「親の心」「大人の心」「子供の心」に分けて人と人との交流を分析するものです。
「親の心」は「批判的・養育的」な心でP(Parent)と表されます。「大人の心」は「理性的・論理的」な心でA(Adult)と表されます。「子供の心」は「自由・従順」な心で、C(Child)です。
交流分析では、自分の「どれかの心」から、相手の「どれかの心」に対して語りかけ、それに対して相手の「どれかの心」から自分の「どれかの心」に返事が来ることで交流が成り立つとします。
例えば私が友人と映画を観に行ったとします。そこで友人が「すげー面白かったよね」と私に語りかけたとしましょう。
このとき友人は、無邪気に彼の「子供の心」から私の「子供の心」に対して語りかけています(これを「C→C」と書きます)。ここで私が「うん、めちゃくちゃ面白かった」と、私の「子供の心」から彼の「子供の心」に返事をすれば(「C←C」と書きます)、コミュニケーションは成功です。
もし、私が「うん、監督の意図と俳優の演技がミスマッチではあったけど、それが脚本の主題と絶妙にマッチしていて結果的にとはいえすばらしい効果を上げていたよね」とか何とか理屈っぽい返事をした場合、これは私の「大人の心」から彼の「大人の心」への返事になります。
つまり「C→C」に対して私は「A←A」と返してしまったわけで、これは完全にすれ違ってしまっています。コミュニケーション失敗です。
「C→C・C←C」とか、「C→C・A←A」とかのパターンを「交流パターン」と呼ぶのですが、一般には相手が想定しているのとズレた応答をすると、コミュニケーションに失敗するとされます(それぞれの交流パターンについての詳細は専門家による解説をご覧ください。図が付いていてわかりやすいです)。
極めて事務的なやりとりは「A→A・A←A」になりますから、「成功」になります。上司が部下を叱っているパターンも、「P→C・P←C」(上司が親で部下が子供)となり、ズレはありませんからコミュニケーションとしては成功しているとされます。
口論は、お互いに相手を叱っている状態ですから「A→C・C←A」で失敗です(ネットでの論争はこのパターンが多いかも知れません)。
論理的対応はコミュニケーションに失敗しやすい
さて、ここで「論理」と「感情」に話を戻します。
人に対する感情的な対応で考えられるのは「P→C」「C→P」「C→C」の3パターンです(「P→C」は子供に対する親の対応で「叱責」や「甘やかし」です。「C→P」はその逆で「服従」や「甘え」になります。「C→C」は「馴れ合い」です)。
一方で、論理的な対応は基本的に「A→A」のパターンのみです。
つまり、感情的な対応(P→C・C→P・C→C)に対して論理的な対応(A←A)をしてしまうと、そのコミュニケーションは必ず失敗になってしまうのです。
一般に、悩み事の相談は「C→P(甘え)」ですから、コミュニケーションを「成功」させるには「C←P(甘やかし)」の対応をする必要があります。相手が愚痴を言ってきたときは「C→C(馴れ合い)」ですから、「C←C」の対応をしないと「失敗」になります。
つまり交流分析の理屈は、悩み事の相談や愚痴に対して論理的対応をするのは不適切だということを示唆しています。
何でも論理的に対応したがる人は──
まあ、いろいろややこしいこと書きましたが、有り体に言えば「空気を読め」と言うことなんですね。何でもかんでも「マジレス」すればいいものでもない、という。
論理的思考を尊ぶ人は、悩み事の相談や愚痴に対しても「マジレス」しがちです。そういう人は得てして感情とか無いの?
という反応をされがちです。
一見「まじめな相談事(A→A)」に見えても、内実は愚痴だったりのろけ話だったりすることは多くあります。つまり表面上は「A→A」のようで実は「C→C」というパターンが意外に多いのです(「裏面的交流」と名づけられています)。それを額面通りに受け取ってしまうと馬鹿を見ることがあります。
とはいえ、コミュニケーションは「必ず成功させなければならない」というものでもありません。例えば、延々と続く愚痴話を穏やかに打ち切るのに「マジレス」は有効な手段です。
なんにしろコミュニケーションは飽くまで手段ですから、それを成功させるために目的を見失うようなことがあればナンセンスです。
──中二病と区別が付けづらい
問題なのは、論理的思考を好むというよりも、それ以外の思考を毛嫌いする人です。
そういう人は特に相手が「C→C」の対応をしてきたときに、どうしても一緒に「子供」になってはしゃぐことが出来ずに「A←A」の対応をしてしまいます。
時には必要なのに、敢えて子供になることがどうしても出来ない──
なんかそんなような話がこないだ話題になってたなあ、と思ったら、これはアレですね。一種の中二病ですな。
中二病についてははてなのキーワードの記述とotsune氏によるネット上での立ち振る舞いを「小二病・中二病・高二病・大二病」に分類してみる遊びを読むと面白いです。
後者の大雑把なまとめ
にありますね。
基本的に2ちゃんねるなんて「C→C」のコミュニケーションしかないですから、そこで義憤や特に正論(A→A)を持ち込むなんてのはナンセンスの極みです。「C→C」に対して「A←A」と返すことしかできないなんてのは中二病の症例と重なってしまうわけです。
というわけで
「敢えて子供になること」が必要なとき、「できるけどしない」のではなくて、「どうしてもできない」とき、それは中二病の疑いがあります(なお、「できるけどしない」と言い訳しながらやらないのは「できない」のと一緒です)。
実は私も「できない」ほうの人間です。つまりこの文章は中二病の構成要件である「自虐ネタ」だったわけですね。私も中二病なんです。
なので、私は「中二病だからダメ」というつもりは一切ないんですね。そもそも「ここでは論理的思考が必要だから敢えてマジレスする」場合と区別が付かないことも多くありますから、一概に「マジレス=中二病」とは言い切れませんし。
逆に、ネタに対して自分がマジレスされたときは次の3つの可能性が考えられ、これらを区別するのは非常に困難です。
- 相手はここでマジレスすることが必要だと判断している
- 相手が中二病である
- 実はウザがられていて穏やかにコミュニケーションを打ち切りたいと思われている
相手の反応や自分の対応が「マジレス」になってるとき、どれに対応するのか考えてみると面白いですね。
人権擁護法案の話から論理と感情の話に、そしてなぜか中二病の話になってしまいましたが、いずれの話題もちょうど同時期に目にして私の中で一つにつながり、これが偶然とは思えずこんな記事を書いてみました。