無断リンク禁止派のインターネット観を想像してみる
一部で無断リンクの話が再燃していたようです。
本文では引用とリンクの話を混ぜてしまっているのがNGな気がしますが、論旨に影響はありません。「無断リンク禁止」「ホームページからの引用禁止」などはナンセンス
というのが大まかな主張となっています。
で、この記事への批判として「リンクは絶対に自由だ」のもとで迫害される人々なんて記事が書かれていて興味深いのですが、今日はとりあえずそちらには踏み込まないことにして──
『「無断リンク禁止」と書くことが有効である』と考えている人々にとって、WWWはどう見えているのか、を考えることにします。
WWWでは「無断リンク禁止」が通用するのは一部のコミュニティだけなんですが、少なくとも彼らの常識では無断リンクは失礼で不法な行為のようです。だとすると禁止札を掲げれば当然やめてくれるものだと考えるのも無理はありません。
もし、自分とその周りの人達だけでWWWが閉じているのなら、それで全く構いません。むしろその状況で禁止札に従わないような人は常識知らずと弾劾して構わないと思います。
でも私は意地が悪いので、彼らの頭の中のWWWはひょっとしたらこんな感じなんじゃないかと邪推してしまうのです。
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宇宙の中心に平べったい大地があって果てまで行くと滝になっているという、例のアレ。
WWWがこういう風に見えてしまっている人は、例えば「イラク・アルカイダ機構」が香田氏の映像を何を使って配信したのか知らないかも知れません。それと同じ仕組みを自分も使っているということに気づかないかも知れません。まして、それがひとつのネットワークでつながってしまっているなんてことは思いもよらないかも知れません。
だって、彼らにとってのWWWには果てがあるから。
イラクが云々という話についてはわざと極端な例を出しましたが、本来WWWはそれだけの広がりを持っています。
それを踏まえた上で語っている人とそうでない人との間に大きな隔たりがあるように思われます。で、「無断リンク禁止派」のうちの多くの人々は無意識のうちに「WWWの果て」を規定して話をしているのではないかな、と私は思うのです。
一般的には「話の範囲」を規定するのは悪いことではなく、むしろしなければならないことです。でも「WWWの果て」に関しては、例えばそれを「自分とその周りの人達」とか「自分の病気に理解のある人達」とか、あるいは「自分の倫理観が通用する範囲」で規定してしまうと、必ず「それは不適切だ」という指摘を受けることになります。
じゃあ、どう規定するのが妥当か……と言われると困ってしまいますが、無断リンクに限れば「日本語が通用する範囲」あたりが妥当ではないかと個人的には思っています(無断リンクについては法的にはほぼ議論の余地がないのでまだ楽なほうです)。
まあ、基本的にはどう規定しようが自由でしょう。でも、それをはっきりさせないのはアウトですね。はっきりさせたとしても、それが実情とそぐわなければ反論を受けるのは必然です。例えを持ち出してしまうと「例えが適切かどうか」の議論にシフトしてしまい、さらに混乱します(Ref. 例えは持ち出さない方がよい)。難しいものです。
実はいずれも無断リンク禁止派だけの問題ではないのですが、特に無断リンク禁止派のほうにそういう傾向が強いように見えたので、わざわざ恣意的な例えを持ち出してみたのでした。
蛇足ですが、「無断リンク禁止派は天動説」という例えを既にotsune氏が書いています(Ref. 「コッソリリンク禁止派」のほうが直感的だ)。でもこれはいわば暗合で、この記事はそれとは独立に書かれたものです。はい。