「涼宮ハルヒの必然」──二次創作に向かないのは作者の都合という話

最近一部で話題の「何故ハルヒ同人が作りにくいのか」の考察を興味深く読みました。

──うーん。要は各キャラクターのベースとなる設定が不明だから作りにくい、ってことですよね。ハルヒ中心だからとか、キョンの視点だからとかいう切り口はあんまり本質的でない気がします。

(筆者註:マリみてにおいては)読者は作品内に描写されていない部分、いわば世界の欠落を自らの体験や常識で容易に埋めることが出来得る。

という指摘も、本当は「欠落」の有無の問題ではなくて、埋める「材料」があるかどうかの問題なのだと思います。

マリみてでは、日常生活の描写などにより「ベースとなる設定」がふんだんに提供されていますし、描写されてない部分についても基本的に一般的な女子高校生という前提で構いませんから、容易に埋められます。

一方涼宮ハルヒシリーズでは、ハルヒを筆頭とする長門、みくる、古泉といったメインキャラの面々は、その属性こそ最初の方で明らかになりますが、実のところどういう人たちなのかは不明です。

これが「シリーズ全体を覆う謎」で、それが今後明らかになっていくというのがメインストーリーです。ですから、すべてのオチが付くときまで作者により意図的に伏せられたままです(マリみてにもまだ「シリーズ全体を覆う謎」が残されているはずですが、ハルヒほど深刻な問題にはなりません)。

ハルヒシリーズでは、この「ベースとなる設定が不明」という方針が、一見「シリーズ全体を覆う謎」とは関係ないキャラに対しても徹底されていて、例えばキョンに至っては主人公なのに本名すら不明ですし、妹も割と頻繁に出てくる割にマスコットキャラとしての役割しか果たしておらず、単なるクラスメイトのはずの谷口や国木田にしても敢えて詳しい描写は避けられています。

そのおかげで、例えばいきなり「実は谷口は○○だった!」とかいう話になっても(その実態が謎な分)不自然じゃないですし、結局そうじゃないのだとしても謎にしておくことによって彼の存在自体がミステリでいうミスディレクションとしての機能を有効に果たすわけです。

そんなわけで、「シリーズ全体を覆う謎」を守るため、例えサブキャラでもベースとなる設定を明らかにするわけに行かないという物語構成上の問題(すなわち作者の都合)故に、二次創作の「材料」が提供されないという副次的効果が生まれてしまった──ということなのだと思われるわけです。

とはいえ、いつまでも謎が謎のままにされるわけでは当然なく、物語が進むにつれて小出しながらも「材料」が提供されていきます。特に長門有希についてはそれが顕著で、「涼宮ハルヒ」が同人ジャンルになるとするならば、それは長門有希が多数に認知されてからという指摘は当を得ていると思います。