投票権積極的棄権の論理

はてなにこんな質問が。

この質問自体がネタな上に、回答者もネタに走ってる人が多いんですけど、実は既にこの手の質問にかなり説得力のある回答を出している人がいます。浅羽道明氏です。

思想家志願

思想家志願

『思想家志願』という本の中でこれとほぼ同じ質問に対してきっちりと論考しています。

選挙を棄権しちゃダメという主張に、特に棄権した者にはその選挙で成立した政権を批判する資格はないんだから、せめて白票を投じるべきだというものが多くありますが、それに納得がいかないという学生からの投書に答えています。

結論としては「選挙など棄権してかまわない」で、詳細は当該書物にて熟知すべし──なんですが、それも何なので要点だけ紹介します。

まず、「選挙という制度は権力者が大衆の敵意をかわすためのテクニックである」という主張が挙げられます。

日本は間接民主制となっていますが、きちんと民意が反映されてるかというとどうもそんな実感はありません。それもそのはずで、実際に政治に対して大きな影響力を持っているのは一部の権力者だけです。

しかし、そういう権力者は実質的な敗者であるところの大衆からの敵意に晒されることになります。

浅羽氏は、それをかわすためのものが国民主権、民主主義というお題目であり選挙という儀式だというんですね。この「儀式」によって政治に参加している気分を大衆に味わわせることで、彼らの敵意を見事かわすことができるという理屈です。

その前提となるのは「人間皆平等」というルールであり、お約束であり、建前であり、「教義」です。これを浅羽氏は「デモクラシー教」と名づけています。

権力者は、より多くの人がこの「デモクラシー教」に入信することを望みます。それだけ自分の権力が安泰になるからです。つまり投票率が上がった方が嬉しいんですね。それだけ多くの人が「デモクラシー教」に入信しているという証拠になりますから。

この「デモクラシー教」という考え方が受け入れられない人でも、より多くの人が参加した選挙で、私たちは政権を任されたのだっていえれば、それだけ政権の正当性がより増すという主張は受け入れられると思います(実は同じことですけど)。

そんなわけで、

社会党共産党スポーツ平和党へ入れた人も、「日本UFO党」や「真理党(オウム)」や「発明政治」に入れた人も、投票率上昇に寄与したという一点では、自民党政権の強化に助力してきたわけです

という主張につながるわけです(例えが古いのは、この論考が1993年初出だからです。ちなみにちょうどその年の総選挙で自民党が大敗してますが、それはそれ)。

これではむしろ投票参加者にこそ成立した政権を批判する資格がないとすらいえそうですね

とまあ、これは極論だと浅羽氏も認めていますが、「積極的棄権」をする根拠にはなりそうです。

なお、浅羽氏はこれを結論とはせず、想定される反論であるところのそのデメリットは承知の上で、社会党だの日本新党だのを勝たせるつもりで投票した人を、投票すらしない棄権者が、非難することができるだろうかという主張に対しての答えも用意しています。

ここまでで十分長くなったので簡潔に書きます。

政治に参加する手段は別に選挙に限らないながらも、例えばテロをするのはリスクが高すぎます。かといって、一票が全体に与える影響は微々たるものです。それでも政治への関与をしなければならない切実さに迫られたとき、どうすればよいのでしょうか。

浅羽氏は現実にとられている手段を挙げます。

村ぐるみ、企業ぐるみ、組合ぐるみ……。いわゆる組織票ですね。すなわち、金と義理とのしがらみの中で生活を守ってゆく人たちだからこそ、選挙という建前を実力行使として組み立て直すことができるのです。

逆にいうと、一介の学生がそこまでの切実さに迫られることはまずないわけで、棄権を考えるのはむしろ自然だ、という話なんですね。

一方、「デモクラシー教」の信者は建前を建前のまま「力の行使」のための手段として生かすことができないであろう、というのが浅羽氏の主張です。

ところで、かーずさんとこで紹介されてるのを見たんですが、今度の選挙についてのVIP派まとめに「どうして選挙行かなきゃいけないのか?の図解」があります。

浅羽氏の主張を読んだ上でこれを読むとなかなか興味深い結論が得られそうです。