「ある日のカラオケボックス」は実は打ち上げでしたというオチだったら。

カトゆーさんとこで取り上げられてた記事について。

白石さんボロクソに叩かれてますねー。

まあここまでは言わなくても、私も「最後までカラオケで行けばよかったのに」と思っていたクチなので、おおむね同意なわけですが。

しかしなんでカラオケを途中でやめちゃったんですかねぇ。こなたが「2時間(≒24曲分)しかない」と最初で言ってるので、当初は最終回までこれで行く予定だったのだと思われるのですけども。

変化をつけたかったのかも知れませんが、いいじゃないですか、「遅れてごめーん」とか言いながら2クール目から増えたキャラが続々とやってきてみんなでわいわいやる、とかいう風にすればマンネリ感も打破できて。

でもって、最終回のエンディングの直前。文化祭が終わった後のエピソードとして、かがみあたりが「打ち上げにカラオケでも行くかー」とか言い出せば最高でした。でもって、

こなた「いいね、行こ行こ」
つかさ「いかほどー」
みゆき「お恥ずかしながら、歌はあまり得意ではないのですが」
こなた「いいっていいって。ゆーちゃんたちは?」
ゆたか「あ……実はクラスのほうにも誘われてて……」
みなみ「(こくり)」
パティ「主役のフタリが出ないわけにもイかないDEATHからネー」
ひより「クラスのほうは最初だけ顔出して後から合流しますよ」
かがみ「(みさおとあやのに)あんたたちは?」
みさお「実は兄貴が来ててさー。放っとくわけにもいかなくて。なー、あやの」
あやの「えーっと……私たちも後で行くから場所教えて?」

――てな感じにすれば最初は4人しかいない理由のフォローも完璧です。

そしてエンディング。実は今までずっとエンディングでやってたカラオケは文化祭の打ち上げだった――ということがはっきりと明かされる、と。

「愛はブーメラン」はやはり外せないでしょうから、こなたが「文化祭と言えばこれだよねー。今までの流れ的に」とか言いながらこの曲を入れて、(何故かみんな知ってて)全員で合唱すれば大団円です。

これやってたらすごかったのになあ。完全後付ですけど。でも後付だからこそのアクロバティックさがまた何とも言えないといいますか。

まあ、実はつかさが「4人でカラオケって珍しいよねー」と第一回で言っちゃってるので、後から人が来るという設定も相当不自然なんですけどね。

ニコニコ市場はあと2回くらい変身を残していそうだ

「将来の夢、正社員」の時代が来るという話から

id:essa氏による未来予想図と、id:ymScott氏によるそれへの反論につきまして。

Amazonとかが市場のロングテールの部分でも商売してくれるおかげで、そのあたりをうろうろしているアーティストが食べていきやすくなったのは確かなんでしょう、きっと。さらにニコニコ動画などの「アーティスト」が表現する「場」は今後ますます拡大していく傾向にあります。

id:essa氏はこの傾向が今後続けば、(逆に正規雇用は減る傾向にあるから)アーティストを目指すことは比較的山っ気のある話ではなくなるだろう(逆に正規雇用されることを目指す方が非現実的になる)――というんですね。

それをid:ymScott氏は、

そんなに簡単というなら、作品一本作ってみろ

――と一蹴します。

id:ymScott氏はコメント欄でこうも書いています。

今のessaさんの主張を肯定するには「皆が金に頓着が無くて、ちょっとでも良いなと思ったらホイホイ金を出す」という社会が実現される必要があるので(そういう意味ではバブル絶頂期なら受け入れられたかなという気はする)。ワンクリック押すのと1円出すことの間にある断絶をあまりにも無視しすぎてるというか。ワンクリックは指さえ動けば無限だけど、金は例え1円でも積み重なればそれなりの額なんで、どこまで行っても有限だし。

確かに直接お金を取れるクオリティのものを作るのは並大抵のことではないと思います。

――が。

クリック数というか、ページビューが(間接的にしろ)お金になればいいのだったら、単純にアフィリエイトすればいいような気がします。別に直接その作品を買ってもらう必要はありません。人さえ集めればいいのですから。

二重の意味でメジャーなアーティストにぶら下がる

実は私はid:essa氏の主張を読んだ当初、少数のメジャーなアーティストに依存する形でMAD職人が食べていける未来が目に浮かびました。

一から新しいことを作るのは大変ですが、適当な素材があってそれを加工して良いのなら一気にハードルが低くなります。

おかげでニコニコ動画ではMADが氾濫しているわけですが、その中には極めてクオリティの高いものが多くあります。もちろん、クオリティが高いからといってそれで食べていけるわけではありませんが、今後ニコニコ動画の規模が今よりずっと大きくなって、例えばそこでのアフィリエイト収入がMADの作者にも入るような仕組みになれば、月20万円くらい稼ぐ人が出てきてもまあ、おかしくないように思われます。

一からものを作る力がなくても創作で食べていけるようになるのなら、やはりそれはid:essa氏が思い描く未来とかなり近いものです。

とはいえ、力のあるオリジナル作品がなければMAD職人は創作活動が出来ないわけですから、今と同じように力のあるアーティストは必要です(それに加えて、そういう人がオリジナルを作るのがバカバカしくならないような社会の仕組みも必要です)。

また、アフィリエイトの仕組みによってページビューをお金に換えるにしても、アフィリエイトで扱う商品はやはり金になるコンテンツである必要があります。

なので、現在主流であるメジャー寄りの「恐竜の頭」的商売が引き続き成り立っていないと、決して少なくない人が創作で食べていける未来――なんてのはやってこなさそうです。

もっとも、逆に言えば「金を取れるクオリティ」のものが作れる人はごく少数でいいのです。極めて希な才能を持った人が力のあるコンテンツを作りさえすれば、それに(素材とアフィリエイトとの二重の意味で)ぶら下がって今よりもっと沢山の人が創作活動で食べていけるようになるかも知れないのです。

ニコニコ動画アフィリエイトがついた意味

これはMAD作品を作ってその関連商品をアフィリエイトで売るというだけの話ではありません。

アフィリエイトというのはそもそも、「基本的にどこの店で買っても同じ」な商品を「うちの店から買わせたらそれを誘導した人に分け前を上げるよ」――というシステムです。Amazonなどがそれに期待しているのは単なる客寄せ効果です。

関連するコンテンツで客寄せをした方が商品を買ってもらえる割合が高いからみんなそうしているわけですが、将来的にほとんどすべての購買活動がWebで行われるようになれば、アフィリエイトで扱う商品がコンテンツに関連してるかどうかなんて関係なくなります。

そういう極端な時代が訪れたときに(例えば)Amazonがコンテンツに求めるのは、「そこで買い物をするとAmazonで買ったことになる場」に人を集めることが出来る力です。「買うつもりがなかったものを買わせる」必要はありません。来た人に「買おうと思ってるもの」さえあればそれでいいのです。

でもって、単に「人を集める」だけであれば、それが「金を取れるクオリティ」である必要は全くないわけですから、id:essa氏の言うようなことが途端に現実的になってきます。

こういう観点からすると、ニコニコ動画Amazonアソシエイトがついたのがものすごくエポックメイキングなことのように思われてきます。「そこで買い物をするとAmazonで買ったことになる場」としてはまさしく「ニコニコ市場」こそがそれに他ならないわけですし(一応id:essa氏は正規雇用の反対側で同様のことを主張しています)。

今はまだ「アマゾン芸」を披露するためのシステムに過ぎない感じですが、もしかしたら大化けしますよ、これは。

でもまあ、「ほとんどすべての購買活動がWebで行われる」という状況は極端すぎといえば極端すぎです。それに、そもそもこういうお金の稼ぎ方が果たしてロングテールのモデルに沿っているのかも疑問です。

そういう意味では、id:essa氏の主張がロングテールのモデルに沿っている(すなわち「金を取れるクオリティ」を要求している)ように読み取れる以上、非現実的と思われても仕方ないような気はします。

ラノベは形而下には存在しない。あるいはクオリアとしてのラノベ。

この記事の表題はまじめに言ってるのではなくて一種のパロディなんですが、それはそれとして、かーずさんとこで紹介されていた下記の記事について。

ぶっちゃけ内容的には赤川次郎の作品はほとんどがラノベだといって構わないと私なんかは思うのですが、「えー? そうかぁ?」と言われたら「あ、いや、ラノベ的、というか、ね」と補足してしまうくらいには自信がありません。

うーん。でもコバルト文庫で出ている『吸血鬼はお年ごろ』シリーズなんかは完全にラノベですよねえ。現状だと絵がアレなので何ですが。

そういえば(吸血鬼つながりというわけでもないですけど)田中芳樹の『ウェディング・ドレスに紅いバラ』が『咲』の小林立のイラストでリバイバルされてましたが、これは商売としてはうまくいっている気がします。「一粒で二度おいしい」的な。『…お年ごろ』も同じ戦略をとるべきですよ。そしたら名実共に完全にラノベの仲間入りです。

もっとも、(やはり吸血鬼ものの)『ヴァンパイヤー戦争』も武内崇を表紙にした新装版が出てましたが、あれは結局無理があったように思います。無論、買った人は多かったでしょうけど、内容的に。同様に夢枕獏魔獣狩りシリーズや菊池秀行の妖魔シリーズのイラストを萌え絵にしたって限度があります(『エルフェンリート』みたいになったりして。それはそれでもはや別の作品ですが)。

下に続きます。

[rakuten:book:12079617:detail]
ウェディング・ドレスに紅いバラ (集英社文庫)

ウェディング・ドレスに紅いバラ (集英社文庫)


「迷ったらラノベじゃない」

整理法の話題で「迷ったら捨てろ」とよく言いますが、ラノベの定義の話題では「迷ったらラノベじゃない」としとくのが安全かも知れませんね。

人間失格 (集英社文庫)

人間失格 (集英社文庫)

例えば小畑健の表紙がついた『人間失格』は、まあ定義の仕方によってはラノベと呼ぶことも可能なんでしょうけど、ちょっと迷いますよね。「じゃあ、これは違う。ラノベじゃない」──てな感じで。

銀河英雄伝説』シリーズも、ちょっと迷ったからアウトです。これはきっと何か別のモノです。

――ということを繰り返していくと最終的にラノベと呼べるものはなくなってしまい、残るのはユーモアミステリーとかアクション小説とか伝奇バイオレンスとか私小説とか「SFなんだか歴史小説なんだかよく分からない何か」とかになってしまいます。

それでも苦労して「これはラノベだ」というリストを作り上げたとしても、「これがラノベでなんであれはラノベじゃないんだ」という物言いがまず必ずついて、「あー、じゃあ、これもラノベじゃない、ということで……」となり、それが繰り返されて結局「これはラノベだ」リストは空になります(逆に「じゃああれもラノベにしましょう」と言ってしまうと今度は世の中のすべてのものがラノベになっちゃいますのでそれもNGです)。

つまり、「迷ったらラノベじゃない」とすると、(極言すれば)ラノベってのは概念だけがあって実物は一つも存在しない、という状態になってしまいます。

存在しないラノベ

もっとも、概念はあるけど実物としては存在しないものなんて沢山あります。もちろん、愛とか勇気とか萌えとかそういう抽象的なものじゃなくて、です。

例えば幾何学では普通「線」は「幅のない長さ」とされますが、そうすると紙に書かれている線は「線」じゃありません。幅があるからです。ていうかこの定義だと現実には「線」なんて存在できません。

まあ、実際にはみんな(数学者ですら)そこまで頭は固くなくって、紙に書かれているアレを「線」だと見なして話を進めています。

とはいえそれにも限度があって、「これは線というより長方形だろ」「いやギリギリ線じゃね?」とかいう感じの境界にあるものが出てきたときに困ります。

ここで「定義」を持ち出すと話がややこしくなるんですね。だって「線」の定義を確認して厳密に適用したら、いままで「線」だと見なしていたものまで「線」じゃないということになっちゃいますからね。

「じゃあ、定義を変えよう」としても、恐らくうまくいきません。「今まで線だと見なしていたもの」が必ず入るような定義をすると、副作用としてほぼ確実に「今まで線だと見なしていなかったもの」がそれに含まれるような事態になります。

きっとラノベも同じ問題に陥ります。いま「ラノベか非ラノベか」の議論が混乱している理由は定義がきちんとしていないからのように見えますが、将来仮にきちんとラノベが定義されたとしても、それにより境界にあるものを判定できるものになるとは到底思えません。

現実には「線」が存在し得ないのと同様に、現実には「ライトノベル」は存在しないのかも知れません。プラトンイデア論的な考え方ですが。

あなたが見ているラノベは私が見ているラノベじゃないかも知れない

そんなわけで「ラノベは形而下にはない」という結論に達するわけですが、その一方で、何か本を読んで「これはラノベだ」と思ったり思わなかったりするということは事実としてあります。しかもそれは人によってかなり異なるわけで。

つまり「同じものを見ているはずなのに同じように見えてるとは限らない」という。おお、これって茂木健一郎がいうところのクオリアじゃないですか。

そうか、ラノベクオリアだったと。クオリアじゃしょうがないですね。

ところでクオリアといえばエロチック街道のヘッド氏のはてブにあったジャズミュージシャンの菊地成孔による下記の発言が非常にツボでした。

「茂木さん椎名誠に似てると思うんだけどこれもクオリアですか。こう、この、質感の」

これはクオリアでしょう。

だーがしかし、答えは無芸大食。「全然違うよ(憮然)」

えーっ。

nintencats的なアレの公式サイトがオープンしてたなんて。

──って、これ一週間ほど前の話ですよ。nintencatsを渇望するあまりはてなキーワードまで作ってしまった身でありながら全然気づかなかったというこの体たらく。

それにしても発売元は任天堂じゃないのが意外というかなんというか。「トワイライトプリンセス」に出てくるネコが大変すばらしかったので期待してたんですけどねぇ。任天堂の中の人はこれで満足しちゃったんでしょうか。

ちなみに8月30日発売だそうで。無条件で飼う買う予定です。

「そこに置かれてる」だけで下手な書評サイトよりも強い意志を感じることもある

下記の記事につきまして。

関係ありそうで関係ない話をしますが、以前品揃えがちょっと特徴的なコンビニに遭遇しまして。

なんの品揃えがか、というと本の品揃えなのです。

ずいぶん前に撮ったものなのでラインナップが古いですが、よく見ると一番上の段にマリみてが置いてあるのです。


(画質が悪くてすみません。ちなみにこれは『クリスクロス』でした。今年の4月の写真なので時期的には『あなたを探しに』が出てるはずなのですが……)

さらに2段目を見ると『咲』やら『ヘルシング』やら『ユリア100式』やら『ながされて藍蘭島』やら置いてあるわけですよ。

「お、これは」と思いましたね。ここの主な利用者が偏ってるのか、仕入れ担当者の趣味なのか。恐らく後者だと思われますが、この品揃えは他のコンビニとはひと味違います。

その後も『ネギま!』とかは当然置いてましたし、それよりはマイナーなところだと『ヴァンパイア十字界』を置いてたこともありました。これは個人的にかなり好きな作品なので置いてあるのを見たときは嬉しかったものです。もっとも既に他のところで買ってしまっていたので、そこでは買いませんでしたが。

そんなこんなでこのコンビニの品揃えを気にしていたところ、ふとマリみてではない他のコバルト文庫が置いてあることに気づきました。


(例によって見にくくてすみません)

「ヴィクトリアン・ローズ・テーラー」というシリーズもののようです。読んだことのないものでした。他のところならまだしも、このコンビニに、ですよ。わざわざこのシリーズが2作品も置いてあるのが気になるじゃないですか。

「あのコンビニにあった作品」ということで読む価値があると見て、シリーズ第1巻を別の本屋で買って(えー)読んでみました。

──いやはや、大変私好みでした。とりあえず今は3冊目まで読みましたが、これは全部揃えそうな勢いです。

このシリーズについてはとりあえず既刊を全部読んでから言及することにしますが、それにしても何をしてこれを私に購入せしめたかを考えると、結構難しい問題です。

品揃えが面白いな、と思ったのもそこがコンビニだったからで、普通の本屋とかだったらスルーしていたと思います。

また、仮に書評サイトで見かけていたとしても買うには至らなかったでしょう。例えば「まいじゃー推進委員会!」ではこのシリーズも当然とっくの昔に紹介されていたわけですが、これをもし先に読んでいたとしても買わなかったような気がします。ここの管理人さんの書評は(自分の好みと照らし合わせて)かなり信頼できると思っているのですが、それでも、です。

まして他の全然知らない方の書評で見かけても買おうとまでは絶対思わないですよ。買おうと思っているものについて調べているときに参考にする程度がせいぜいです。

一方そのコンビニには、ただそれが、そこに置いてあっただけなのです。

これが「いつも見ているサイトにアフィリエイトが貼ってあった場合とどう違うのか」とか「Amazonリストマニアとの違いは?」とか色々考えてみたんですが、どうもいい切り口が思いつきません。

強いていえば意外性が重要なのかも知れませんね。あって当たり前のところにあってもしょうがなくて、「え、なんでこんなとこに?」というところに出てきたものに人は「意志」を感じるのでしょう。

少し前に、発売中の「群像」で、筒井康隆が「涼宮ハルヒの消失」が一番面白いといってるという記事が一部で話題になったことがありましたが、これを受けてわが青春時代の神すなわちゴッドである筒井康隆先生も読んだというのであれば、私もいいかげん読まなければなるまいといって涼宮ハルヒの憂鬱を読んだという方がいました。ちなみにエロチック街道のヘッド氏もはてブしまった、師匠も読んだのならそろそろ読むか。と書いてます。

これはもちろん特定人物の書いた感想だから影響力があったと解釈するのが妥当ですが、さらに「意外性」があったから余計に強い効果があったのだ、と考えても良さそうです。

Advanced/W-ZERO3[es]入手しました

遅ればせながら。

色々あって発売日当日に受け取れない状況だったので土曜の夜に配送指定してありました。来るまで待ち遠しかったことといったら。

さて、入手したはいいものの、ぶっちゃけ買ってきたまんまじゃ使い勝手が悪いんですよね。結構色々いじくり回さないといけません。以下、自分用のメモとしてとりあえずやったことを記録していくことにします。

飽くまで自分用メモなので色々適当なのはご勘弁ください。

液晶保護シートの貼付

WILLCOM STORE で買うとついてくるオリジナル液晶保護シート。「Advanced [es] W-ZERO3」と画面の真ん中にでっかくエンボス加工してあって正直視認性が悪くなります。まあ、貼りやすいことは貼りやすかったですが。

W-SIMはまだ差さない

同梱されていた紙の記述によると、旧W-SIMから切り替わるのが(到着した日の)深夜2時とのことなので、とりあえず差さずに電源オン。

キーボードを出しても画面の縦横を切り替えない設定

「スタート→設定→システム(タブ)→ユーティリティ→画面回転設定(タブ)」で設定できました。しょうがないんでしょうけどメニュー階層が深すぎです。

もっとも、昔のesだと切り換え時間が長くてイライラしたものですが、アドエスだとそこそこ早いのでデフォルトの設定でも使えるかも知れません。

節電設定

「スタート→設定→システム(タブ)→パワーマネージメント」をいじくります。

とりあえずダイヤルキーやキーボードのオレンジ色のLEDを消すには「キー点灯(タブ)」で「常に消灯」。

「電波状態ランプ」も消しておくと待ち受け時間が長くなると言われているので消しておきました。

バックライトも暗くしておくと電池が持つんでしょうけど、あんまり暗くても日中外で使いづらいので保留。ちなみにデフォルトの設定が一番明るいようです。

Windowsキーとokキーをソフトキーにする

「スタート→設定→個人用(タブ)→ボタン→ソフトキー(タブ)」で設定。

「長押し時間」は「長い」が普通の長押しの感覚です。「標準」がちょうどいいのでは、と。「短い」だと普通に押すだけで長押し判定される場合がありました。まあ、結局慣れですけども。「短い」で慣れておくと操作が素早くできるかも。

無線LANの設定

一応マニュアルの2-6に説明が書いてありますが、分かりにくかったです。

まず、無線LANをオンにしないと設定すらできません。「スタート→設定→接続(タブ)→無線ON/OFF」を選んで無線をONにします(タイトルバーのインターネット接続のアイコンをタップしてもよくて、そっちの方が早いかも)。

なお、そのときSSIDが見えるアクセスポイントがあれば、画面下部にその旨表示されるので設定画面を出すのが楽です。ちなみにうちの近所には暗号化されてないアクセスポイントがあって、今回もそれが真っ先に見えました。

我が家のアクセスポイントはSSIDを隠しているので、明示的に指定しないといけません。さっきと同じ接続タブの「ネットワークカード」を選んで、「新しい設定の追加」をします。

「ネットワーク名」はSSIDのことでよいのですが、「接続先」の「インターネット設定」と「社内ネットワーク設定」との区別がよく分かりませんでした。マニュアルの2-11には自宅などからプロバイダーに接続する場合は、「インターネット設定」を選択しますとあるのですが、これじゃアドエスからプロバイダにダイアルアップするみたいに読めますよねえ。

マニュアルの2-6にある説明と合わせて考えるに、IPアドレスが固定だったり、プロキシの設定が必要な場合は「社内ネットワーク設定」を選んで、そうでなければ「インターネット設定」を選ぶべきのようです(まだよく分かっていないのですが)。

普通の家庭用ブロードバンドルータだったらDHCPサーバ機能がついてますから(うちのもそうです)、とりあえず「インターネット設定」でよさげです。

次の「ネットワーク認証の構成」は、まあ適当にやればOKです。(NDSを使えるようにするために不本意ながら)認証はオープンシステムで暗号化はWEPにしているので、それぞれ「オープン」「WEP」に設定しました。「自動的に提供されるキーを使用する」のチェックは外して暗号化キーを入力。次へ。

IEEE 802.1xネットワークうんたら」はチェックを外しました。

「完了」をタップすると「ワイヤレスネットワークの構成」の画面に戻ります。新しく項目が追加されているのが分かりますが、表示されているのはSSIDです。「自宅」とか分かりやすい名前を付けたいのですが、できないのでしょうか。

接続したいネットワークを選んで、メニューバー(画面最下部)の「接続」をタップすると接続開始……するはずなのにそうなりません。状態が一瞬「接続中」になるのですが、すぐに「利用可能」に戻ってしまいます(接続されたなら「接続済み」になるはず)。

何度かやってみて失敗して、試しに一旦無線をオフにしてもう一回オンにしたらあっさり成功しました。なんだったんだか。

──と、無線LANの設定でえらく長くなってしまいました。続きは明日以降。