自分にとっての集団の価値 集団にとっての自分の価値

先日取り上げたid:higigaeruさんの引きこもりの話に関連して、集団と個人の関係について思うところあったので書いておきます。

higigaeruさんの記事の最後のパラグラフにある、引きこもりから脱出した"直接的なきっかけ"についての記述を引用します。

僕の大学は、京都大学です。よって"勉強が好きで、ポテンシャルがあり、学校に戻る社会的意義が大きかった"という事です。

私が考えるのは、「もし京都大学ではなく二流、三流の大学だったらどうだったのだろうか」ということです。

学校に限らず、自分にとっての「集団の価値」は重要です。

「集団の価値」とは、自分がそこに所属することによる直接的な、あるいは間接的なメリットです。学校なら、勉強ができることや友人がいること、そして社会的意義などが挙げられるでしょう。

自分にとっての「集団」の価値がある一方、「集団」にとっての自分の価値というものも存在します。

「学校にとっての自分の価値」と言われてもいまいちピンと来ませんが、「集団」は様々な形を持って常に私たちを取り巻いています。家族、友人、部活、サークル、バイト先、会社、ネットのコミュニティ……。特殊な例ですが、「恋人」をそこに含めても良いかも知れません。

そういった集団が自分にとって価値のあるものであり、かつ自分がその集団にとってもかけがえのない存在であるなら、それはとても幸せなことです。

逆に、集団に対してさほど思い入れもなく、集団にとっても特に自分が必要とされていなければ、それはそれで問題はありません。

要は「自分にとっての集団の価値」と「集団にとっての自分の価値」とのバランスがとれていれば良いのです。

悲劇はそのバランスが崩れたときに起こります。

集団の中で起こるトラブルは、元を辿っていくとこのバランスが欠けている部分に原因を見いだせる場合が多いように思います。

想像しやすい例だと、バイトや仕事を辞める辞めないという話ですね。仕事に意義を見いだせなかったり待遇に不満がある場合や、逆に会社にとってお荷物になってしまっている場合は、いずれも価値のバランスが崩れている状態です。

ちなみに「職場に不満はあるけど他に行くとこもないし……」とだらだらと辞めずにいる場合は、際どいながらもバランスはとれているので一応問題ありません。何かのきっかけで一気にバランスが崩れる可能性はありますが。

集団にとっての個人の価値が低い場合、会社なら、居づらくすることで自発的に辞めるように仕向ける場合もあるようです。これは、本人にとっての集団の価値を下げることで価値のバランスを取ろうとする行動だと考えられます。

残念ながら、両方にとっての価値を高めてバランスを取ろうとすることはあまりないようです。大抵の場合逆方向です。そしてそれはトラブルとして顕在化し、最悪の場合は個人と集団の決別というかたちで決着します。

つまり集団と個人の間で起きるトラブルは、価値のバランスを取ろうとする行動であると言えます。

したがってトラブルが起きているときは、まずお互いにとっての価値がどのようなバランスになっているのかを見極めることが大事です。その上で、なるべく片方の価値を上げることでバランスを取るように行動すれば、理想的なかたちで決着がつくと思われます。

ちなみに、引きこもりやニートがなぜ良くないと言われるのかというと、これは社会と個人との間の価値のバランスを崩す行為だからです。社会から見れば価値がないのに、社会に甘えて、寄っかかって生きていると見なされるからです。

しかし、個人にとってはそれでもいっこうに構わないわけで(だから続けていられるのだと思われます)、それはつまり擬似的ながらもバランスがとれている状態なわけです。

この擬似的なバランスの要因はいったい何なのかが分かれば、引きこもり脱出の手がかりが得られそうな気がするのですが、まだよく分かりません。